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福岡忠久の偉人録

僕、福岡忠久が、ただただ偉人を紹介していくブログ。

福岡忠久の偉人録「近藤勇」

今日、福岡忠久が紹介する人物は近藤勇です。


近藤勇は農民の家に生まれながら武士を志し、最期まで武士であることにこだわり続けた人物です。新撰組の局長として、幕末最強の剣客軍団を率いてきた、我が国の「ラストサムライ」の一人と言ってもいいでしょう。


大河ドラマ新選組!』では香取慎吾さんが演じた、この近藤勇。ドラマの中では、拳骨を口の中に突っ込む様子が印象的でしたが、実際の彼も口が大きくて、拳骨を口の中に入れる芸を披露するような豪快で気さくな人物だったようです。


福岡忠久が思うに、近藤勇は典型的な「ナンバーワンタイプ」の人間です。実質、新撰組の組織運営を一手に担っていたのは副長の土方歳三でした。近藤勇は局長という立場から、隊の細かい事情にはあまり口を出していません。運営に関しては、完全に自分の仲間を信頼して任せきっています。ただし、いざ問題ごとが生じた時にはトップとして頭も下げれば責任も取る。そんな彼の男気溢れる人柄に、隊士達は何より惹かれていたのです。良い人材を引き付けるだけの魅力のある人物。彼にはカリスマ性が備わっていたと言えるでしょう。


翻って我が国の現状を見るに、政治家の方々の中にはこれだけの気骨のある人物がどれくらいいるでしょうか?他人に責任を擦り付け、揚げ足取りばかりに躍起になる彼らを見ていると、福岡忠久は悲しく、情けなく思えてくるのです…。

福岡忠久の偉人録「前田利家」

今日、福岡忠久が紹介する人物は前田利家です。


前田利家といえば加賀百万石を築き上げた武将として有名ですが、日本最大級の石高を誇る大名に上り詰めるまでの道のりは、けっして平坦ではありませんでした。


前田利家が生まれたのは1539年(天文7年)、尾張国海東郡荒子村でした。領地2000貫の土豪の家の出で、1551年(天文20年)に織田信長に小姓として仕えました。信長には大変可愛がられ、戦においても数々の功績をたてたことから、信長の家臣たちからも一目置かれる存在へと成長していきました。現代では利家は槍の名人としてのイメージが強いですが、利家が槍の名人として知られるようになったのは1558年(永禄元年)浮野の戦いに従軍した頃からで、槍を使った勇猛果敢な戦いぶりで「槍の又左」と異名で呼ばれたことが由来です。

 

信長が本能寺の変で失脚してからは秀吉に重用され、豊臣政権の五大老の一人として活躍しました。秀吉が亡くなったあとは徳川につき、関ヶ原の戦いを経て外様としては最大の百万石の栄華を誇る加賀国を築きました。


福岡忠久は、派手さはありませんが前田利家が好きで、時流の変化に柔軟に対応して出世していったところは見習いたいと思います。

福岡忠久の偉人録「沖田総司」

今日、福岡忠久が紹介する人物は沖田総司です。


沖田総司は、新撰組一の剣の使い手との呼び声も高く、幕末最強の剣士として知られる人物です。
局長の近藤勇、副長の土方歳三の右腕として、幼い頃から自慢の剣の腕をふるい、最強の名を欲しいままにしてきた彼ですが、病には打ち勝てず…。池田屋事件で喀血した後も、自らの命を削りながら精力的に隊務をこなしていましたが、病状は悪化の一途をたどり、最期は千駄ヶ谷で孤独な死を遂げました。

 

享年は二十七。


こんなドラマチックな生涯から、彼には「薄幸の美剣士」としてのイメージがついており、漫画や小説などではかなりの美形として描かれることが多いです。皆さんも、彼に対してはかなりのイケメンというイメージをお持ちなのではないでしょうか?かく言う福岡忠久も、司馬遼太郎さんの小説『新撰組血風録』や『燃えよ剣』の中での印象から、彼に対しては「底抜けに明るい美形の少年」というイメージを抱いています。


しかし、彼は本当にイケメンだったのでしょうか?


福岡忠久が調べてみたところ、残念ながら沖田総司の写真は残されていません。ただ、肖像画や姉のミツの写真、そして、数々の資料から残る描写から判断するに、実際の彼は「長身で浅黒くヒラメ顔」の男だったようです。


沖田ファンの女性には大変ショックな事実かもしれませんが、実際の顔がどうであれ、彼が新撰組最強の天才剣士であったのは揺るぎない事実です。

福岡忠久の偉人録「山本勘助」

今日、福岡忠久が紹介する人物は山本勘助です。


山本勘助は、武田信玄の名参謀として知られ、戦にまつわる数々のエピソードが語り継がれていますが、出自など不明な点が多く、謎の多い人物です。


山本勘助の出自で有力なのは、1493年(明応2年)に河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)で生まれたとする説です。

26歳から10年間、日本全国を放浪して武者修行し、37歳で今川義元に仕官しようとしましたが失敗しました。それからは浪人生活が続き、武田家に仕官できた時には50歳を過ぎていました。


武田家に仕官できてからは戦で次々に功績を上げ、わずか数年で武田二十四将に数えられるほどに出世します。川中島の戦いでは勘助が考えた「啄木鳥戦法」という作戦を信玄が採用してくれるまでに出世していましたが、挟み撃ちを狙っていることが上杉謙信にバレて形成が不利になります。責任を感じた勘助は敵軍に自ら乗り込み孤軍奮闘しますが敢え無く討ち死にします。自分を重用してくれて作戦まで採用してくれた信玄に報いるため、無謀だと知りつつ敵陣に乗り込んだ勘助には涙を禁じえません。

 

福岡忠久は高齢になってから活躍した山本勘助も凄いと思いますが、勘助の才能を見ぬいて重用した信玄の洞察力にも感心させられます。

福岡忠久の偉人録「黒田官兵衛」

今日、福岡忠久が紹介する人物は黒田官兵衛です。


大河ドラマで取り上げられて一躍有名になった黒田官兵衛は、先見性や洞察力に優れ、豊臣秀吉徳川家康にも一目置かれる名将として名を残しました。


黒田官兵衛は1546年(天文15年)に播磨国の姫路に生まれました。1575年(天正3年)に豊臣秀吉の取り次ぎで織田信長に謁見します。

信長は初対面で官兵衛の才能を見抜き、名刀「圧切長谷部」を授けます。信長の死後は秀吉の参謀として活躍し、四国攻めや九州征伐で豊臣軍の勝利に貢献します。豊臣家の家臣として活躍しているこの時期に、キリスト教に入信しており、その後の生き方や考え方に大きな変化を与えます。


「最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ。」は福岡忠久が好きな官兵衛の名言です。最終的に勝利をおさめることが重要で、目先の小さなことにとらわれるなという意味です。人間は目標に向かって努力を続けることが難しく、ついつい目先の出来事に一喜一憂しがちです。


福岡忠久も、目標を立てても三日坊主や計画倒れになることが多く、失敗や挫折をするたびにこの言葉を思い出します。官兵衛は、これだけ洞察力に優れた人物ですから、10年早く生まれていれば天下を取れていたかもしれませんね。

福岡忠久の偉人録「森鴎外」

今日、福岡忠久が紹介する人物は森鴎外です。


森鴎外は明治・大正期の文豪であり、陸軍軍医としても知られます。

他にも翻訳家、評論家、政治家など様々な肩書を持っており、最終学歴はなんと、東京大学医学部!スーパーエリートなんですねぇ…。

しかも、写真を見るに、お顔もかなりのイケメン。いるんですねぇ、天から二物も三物もの才能を与えられた人物って。


代表作は、小説『舞姫』や『雁』、『高瀬舟』などです。

とりわけ、留学先のドイツで現地の女性と恋に落ちた実体験を元にして書かれたと言われる『舞姫』は有名ですね。

福岡忠久も高校生の頃に読んで、留学先でのドラマチックな恋愛に憧れを抱いたものです。
さて、数々の偉大なる功績を残した森鴎外ですが、彼はなんと、昨今問題視されている「キラキラネーム」の名付け親の元祖でもあるんです!
彼の名付けた「キラキラネーム」とはどういったものだったのかというと…。
長男・於菟(おと)、長女・茉莉(まり)、次女・杏奴(あんぬ)、次男・不律(ふりつ)、三男・類(るい)。

どう見ても、外国人名に漢字を無理矢理当てはめています。

この命名を明治時代にやってのけたのですから、当時はさぞ変わり者扱いされたことでしょう。


ただし、彼の場合は名付けに知性が感じられます。

子供たちはそれぞれ、その知性を受け継いでいます。

「キラキラネーム」であっても、知性の感じられる名前であれば、子供は苦労しないのかもしれません。

福岡忠久の偉人録「小林一茶」

今日、福岡忠久が紹介する人物は小林一茶です。


江戸時代の俳人として有名ですが、私生活では幼少時代からとにかく家庭運に恵まれない人生でした。


現在で言う長野県の農家に生まれた一茶ですが、3歳の時に実母と死別することになります。

8歳の時に継母が来て、弟も生まれるのですが、その継母と一茶との折り合いは悪く、一茶が江戸に奉公に出される原因となります。


実は、奉公に出た一茶が俳人として活躍し出すまでの経緯というのは良く分かっていません。

というのも、俳人として一茶が高く評価され始めたのは、明治時代からであり、正岡子規による再評価を待たないといけなかったからです。
有名な諸国漫遊を経て、39歳になった一茶にまた家庭の問題が勃発します。実家の父が病死し、遺産相続問題で、継母や弟と対立することになったからです。

12年に及ぶ遺産相続問題が解決すると、一茶は故郷へ戻り定住します。

この後、人生で最初の結婚をする一茶ですが、4人の子供と妻を全員病気で失うことになりました。

その後、2番目の妻とは早々に離婚し、3番目の妻との間に生まれた娘は成人にまで至るわけですが、一茶自身は娘が生まれる前に64歳の生涯を閉じることになります。
福岡忠久的に思うことは、まるでゴッホのようだなということです。文化人として生前に評価されなかった点や、私生活での度重なるトラブルなども含めて、その悲劇性がそっくりですよね。

福岡忠久の偉人録「安藤百福」

今日、福岡忠久が紹介する人物は安藤百福です。


チキンラーメンの開発者として知られる安藤百福は、数々の即席麺商品をを開発し、インスタントラーメン産業を発展させました。
安藤百福は1910年(明治43年)に台湾で生まれ、若い頃は日本で仕入れた繊維などを台湾へ輸出し財を得ました。

次第に精密機械の製造や飛行機エンジン部品の製造など事業を拡大しますが、第二次世界大戦の空襲で全ての事務所・工場を失いました。
戦後、日本に帰化し、1958年にチキンラーメンの開発に成功し販売を開始します。

チキンラーメンは発売直後から大ヒットし、日清は1963年に東京証券取引所2部、大阪証券取引所2部へ上場するなど急成長します。

1971年にはカップヌードルを販売し、日清はさらに大きく成長しました。


目立った経歴だけを見ると、安藤百福の人生は順調そのものに見えますが、戦前には、国からの支給品を横流ししている疑惑がかけられ連行されたり、戦後は脱税容疑で逮捕され巣鴨プリズンに収監されました。

2年後無罪釈放されますが、まわりに請われて信用組合の理事長になれば信用組合は倒産し、多額の負債を背負ったこともあります。


福岡忠久は、安藤百福がずっと順調な人生を送っていたと思っていたので、波乱万丈の人生だったと知って驚きました。

福岡忠久の偉人録「吉田松陰」

今日、福岡忠久が紹介する人物は吉田松陰です。


幕末の思想家として有名な人物であり、自身の運営する私塾である松下村塾で、明治維新の原動力となった若者達を育てたことが、1つの大きな功績として讃えられています。


清廉潔白な人間性と東洋的な学者というイメージのある吉田松陰ですが、実際のところは、思いたったら即行動に移すアクティブな人間だったようですね。

アヘン戦争で清が負けたという情報を耳にすると、東洋の学問や兵術に限界を感じ、藩外に遊学して、佐久間象山などの下で西洋学問や兵術を学んでみたりと、30年にも満たない短い人生の中で、忙しくあちこちへ旅をして回った行動力には目を見張るものがあります。
ただ、吉田松陰の行動力には、後先を考えない無鉄砲さがついてまわるものだったため、彼の人生が30年にも満たずに幕を閉じる直接の原因にもなりました。
吉田松陰の思想に関しては、現在の価値観からすると、相容れないものも少なくないです。
福岡忠久的に首をかしげる思想が「一君万民論」ですが、これは当時の支配的な思想が、西洋においても帝国主義だったことを考えると、天皇の下に民があるという吉田松陰の思想も、時代的に仕方がないのかなと思います。
逆に、素晴らしいと思う思想が「飛耳長目」であり、情報収集の大切さを説く思想ですが、現在でもそのまま通じる部分が多いです。

福岡忠久の偉人録「豊田喜一郎」

今日、福岡忠久が紹介する人物は豊田喜一郎です。


トヨタ自動車の創業者であり、日本における自動車の父的な存在です。
元々は、豊田自動織機製作所で、自動紡績機の改良に尽力をつくしていた研究者だった豊田喜一郎ですが、商談の際に度々訪れていた欧米で、自動車産業が勃興している姿を見て、日本における国産自動車メーカー設立の野望を抱くようになります。


とはいえ、大正から昭和初期の日本では、フォードの自動車工場が国内で操業されており、所謂アメ車が国内市場を席巻していた状況であり、アメリカと日本では、工業力の差が大きく開いていた時代でした。


豊田喜一郎は、この困難な状況を乗り切るために、欧米から自動車を輸入して、分解と組み立てを繰り返すことで、自動車の構造や仕組みを理解し、国産自動車製造に向かって邁進していたと伝えられています。


福岡忠久的に頭が下がる部分は、この石にかじりついても諦めないという気概ですね。日本の産業史に残る偉人たちには共通している部分です。


やがて努力が実り、会社を挙げての自動車事業進出へと繋がるわけですが、その後の豊田喜一郎は、その時代に生きた多くの人間と同じように戦争に巻き込まれます。

戦時中は軍用車の製造を強いられ、戦争が終わり、ようやく民間の自動車が作れると喜んでいた矢先の1952年に、豊田喜一郎は病死することになりました。