福岡忠久の偉人録

僕、福岡忠久が、ただただ偉人を紹介していくブログ。

福岡忠久の偉人録「山本五十六」

今日、福岡忠久が紹介する人物は山本五十六です。


海軍大将としてブーゲンビル島上空で戦死した山本五十六は、今日でも語り継げれる数々のエピソードや名言を残しました。


山本五十六は1884年(明治17年)に新潟県長岡市で生まれました。五十六という名前は当時の父親の年齢が56歳だったことにちなんで名付けられました。

1901年に海軍兵学校へ入校し、日露戦争まっただ中の1904年に卒業しました。

翌年には日本海海戦に参加しますが、左手の人差指と中指を欠損するなど重症を負います。

ハーバード大学留学などを経て軍内で順調に出世し、1933年に第一航空戦隊司令官、1939年には第26代連合艦隊司令長官に就任します。
福岡忠久が知っている山本五十六の名言は、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」と「人は真剣になると、自然に口数が少なるなるものだ。」です。

確かに、他人に命令するだけで自分は何もしない人は周りから尊敬されませんし、褒めないことには人は努力をしようと思いませんね。

そして、無駄話や言い訳をしている状態は真剣とはいえず、本当に集中して物事に取り組んでいるのなら静になることを実感しているので、山本五十六の名言には深く共感します。

福岡忠久の偉人録「松尾芭蕉」

今日、福岡忠久が紹介する人物は松尾芭蕉です。

その中でも今回福岡忠久が着目するのは松尾芭蕉が忍者だという説です。

芭蕉といえばおくのほそ道の作者としてお馴染みですね。

これはいわゆる紀行文で、当時江戸を出発した芭蕉が東北や北陸を巡り、岐阜にある大垣までの旅を綴った内容となっています。


芭蕉は当時伊賀の国で生まれたとされ、姓を名乗ることも許されていたそうです。今日の日本では姓を名乗るのは当たり前の事ですが、当時は一部の階級の人間のみが許されていました。

そのため、武士の家もしくは土豪と呼ばれる裕福な農家の出身ではないかと言われています。近年注目されている松尾芭蕉忍者説は一部の忍者も姓を名乗ることが許されていたからというのも理由の一つとなっています。 

 

では芭蕉の忍者説についてですが、伊賀の国は忍者の里として知られていました。江戸に出てきた芭蕉は当初日本橋に住んでいたのですが、後に住まいを深川に移して何度も旅に出るようになります。

当時は俳句を教えることで生計を立てていたにも関わらず、武士や商人の多い日本橋ではなく、当時あまり開かれていなかった深川に移り住んでいるのです。更に、収入が落ちているのに何度も旅に出るというのは違和感がありますよね。
当時、旅行というのは今よりももっと敷居の高いものでした。そのため、芭蕉は元々忍者で俳諧師として活動していたのはカモフラージュではないかという意見が多くあります。当時芭蕉は名の売れた俳諧師でしたから密偵としてはうってつけです。

伊達政宗がまだまだ覇権を狙っていましたが、政宗もまた忍者を味方にしていたので普通の忍者では返り討ちに遭うか、存在がバレてしまいます。しかし俳諧師ならば旅をしていても不思議は無いですよね。

当時松島を素通りした記録が残っていますが、一方で仙台藩の重要拠点は訪れているというのもポイントになります。そう考えると謎が解けるようで面白いですよね。

 

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福岡忠久の偉人録「雪舟」

今日、福岡忠久が紹介する人物は雪舟です。

雪舟室町時代に活動した、水墨画家・禅僧です。

1420(応永27)年、備中(岡山県総社市赤浜)で生まれ、13歳の時に備中井山の宝福寺(岡山県総社市)に入り、僧になったと言われています。


その後、雪舟は京都の相国寺に入りました。等楊の名をもらい、禅の修行を続けながら、周文から絵を学びました。大内氏の庇護の元、周防に移り住んだ後は、1468(応仁2)年、遣明船に乗って中国(明)に渡ります。

 

約2年間、各地で水墨画を学び、画聖と呼ばれるほどになりました。明に渡ったことは、帰国後の画風に、大きく影響を及ぼすことになったと言われています。
帰国後は、周防、備後、豊後、石見で創作活動を続けました。

 

豊後時代には、九州各地から弟子が集まりました。没年については、定かではありませんが、1506(永正3)年、87歳という説が有力です。また、亡くなった場所についても、周防の雲谷庵や岩見増田の大喜庵、備中の重玄寺など諸説あります。

 


雪舟といえば、「涙で鼠を描いた」逸話をご存じの方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

福岡忠久は、子どものころに聞いたことがありました。

宝福寺での小僧時代、絵が好きだった雪舟は修行をそっちのけで、好きな絵ばかりを描いて過ごしていました。

腹を立てた和尚は、ある朝、雪舟を柱に縛り付けますが、夕方になって様子を見に行きます。

すると、一匹の大きな鼠が雪舟の足元を動き回っているのに気づきました。和尚は近づいて鼠を追い払おうとしましたが、今度は動く気配がありません。

よく見ると、鼠は、雪舟がこぼした涙を足につけて、床に描いたものでした。それ以来、和尚は雪舟が絵を描くのをいましめることはなかった・・・と言われています。

福岡忠久の偉人録「千利休」

今日、福岡忠久が紹介する人物は千利休です。


千利休は、大永2年(1522年)から天正19年2月28日(1591年4月21日)の、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人です。わび茶(草案の茶)の完成者としても知られていて、聖茶とも称せられています。


千利休は、和泉国・堺の商屋の生まれで、家業は倉庫業でした。若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついでに竹野紹鴎に師事して、茶の湯改革に取り組みました。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われました。

そして、本能寺の変の後に、豊臣秀吉に仕えることになります。天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への茶中献花に奉仕して、このときの宮中参内するため居士号である「利休」を勅賜されます。

そして、天正15年(1587年)の北野大茶湯を主管して、一時は秀吉の重い信任を受けました。また、黄金の茶室の設計などを行う一方で、草案茶室の創出・楽茶碗の制作・竹の花入の使用を始めるなど、わび茶の完成に向かっていきます。

千利休は、秀吉の聖楽城内に屋敷を構えて、惺楽第の築庭にも関わるなどして、茶人として名声と権威を誇りとしていました。
天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れてしまい、堺に蟄居を命じられてしまいます。弟子たちが奔走しましたが助けられず、京都に呼び戻された利休は聖楽屋敷内で切腹を命じられて亡くなりました。


利休が亡くなった後、秀吉によって利休聖楽屋敷は取り壊されてしましましたが、その他多くの大名茶人がわび茶の道統をつなぎました。


現在でも、大阪に千利休屋敷跡や、京都の清明神社内に記念碑などが建てられています。

茶人として、一生を捧げた千利休は、福岡忠久も大好きな偉人の一人です。

 

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福岡忠久の偉人録「吉田兼好」

今日、福岡忠久が紹介する人物は吉田兼好です。

吉田兼好と聞いて真っ先に思い浮かぶのが、枕草子方丈記と並び、日本三大随筆の一つとされている「徒然草」ではないでしょうか。

徒然草は、室町時代中期以降に高く評価されました。

現代においても、文学的に評価されているだけでなく、同時代の社会思潮を知るための史料としても、価値の高いものです。 

 

兼好は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての官人・歌人・随筆家・厭世者で、本名を卜部兼好(うらべかねよし)といいます。

京都・吉田神社神職の子として生まれ、後二条天皇のもとへ出仕して蔵人・左兵衛佐まで昇進した後、三十代前後で出家厭世しました。

出家厭世の明確な時期や、理由はよく分かっていませんが、俗名を音読した「兼好(けんこう)」を法名として名乗るようになります。


出家した後は、仏道の修行に励む傍ら、和歌に精進しました。

鎌倉には少なくとも2回訪問したことが知られています。

南北朝時代には、現在の大阪市阿倍野区にある正圓寺付近に移り住み、清貧自適な生活を送っていたと伝えられています。

徒然草は、諸説ありますが、出家した後の1330年8月から1331年9月にまとめられたようです。和歌は二条為世に学びました。兼好は、為正門下の和歌四天王の一人と称されています。
これまで徒然草は、色々な人によって現代語訳されてきました。書出し部分は学校で習った覚えがあるけれど、その先はよく知らないという方もいらっしゃるでしょう。福岡忠久もそうでした。

でも、大人になって読み返したい古典として真っ先にタイトルが上がる作品です。

人生論あり、友情論あり、辛口の人間批評や政治批評ありの徒然草を通して、兼好の世界を味わってみてはいかがでしょう。

福岡忠久の偉人録「小野小町」

今日、福岡忠久が紹介する人物は小野小町です。


小野小町と言えば、楊貴妃クレオパトラと共に、世界三大美女と言われています。

ですが、その大層な肩書の割に、いまいちどんな女性だったのか、はっきりしていません。出生、生い立ちも正確には分かっていませんし、そもそも小町の名前すら、本名ではありません。小町とは役職や官位名のようなもの。

これは、小野小町の生きた平安時代の女性は、父や夫の役職名で呼ばれる事が多かったという当時の慣習に起因しています。

また、肝心の外見についても、当時の彼女を描いた絵や彫刻は存在していません。後に描かれた絵等でも、彼女の顔をはっきりと描いたものはあまりありません。これでは、一体、何を持って世界三大美女に数えられているのか、少し疑問を感じます。

そこで、小野小町を美女であったと確認する為に、福岡忠久なりに彼女の美女伝説を調べてみました。
小野小町の美女伝説の中で有名なのは『深草少将の百夜通い』。

小町の美しさに一際惚れ込んだ深草少将は、熱心に彼女に求愛し、それに困った小町は、百夜自分の元に通いつめれば、夫婦になってもいいと、厳しい条件を提示します。少将は言われた通りに、雨の日も嵐の日も小町の元に通い続けます。

ですが、小町の屋敷までの道のりは長く険しい。日中の多忙もあり、睡眠不足になった少将は、念願が叶う寸前の99日目の夜、ついに過労と大雪で力尽き、小町の屋敷へと向かう途中で凍死してしまいます。

この伝説に限らず、小町は多くの男の誘いを断り続けていたという逸話が多く残っています。
また、小野小町は、歌人としても有名です。百人一首になっている『花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめし間に』の歌を知っている人も多いでしょう。

逸話では男の誘いを冷たくあしらう一方、小町の歌は情熱的な恋愛感情を歌ったものが多く残されています。

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福岡忠久の偉人録「清少納言」

今日、福岡忠久が紹介する人物は清少納言です。

清少納言は随筆『枕草子』の作者として有名です。

父は、有名歌人であった清原元輔

 

清少納言という名前は本名ではなく、清原姓に由来する『清』に、女房名である『少納言』を合わせたものです。

なので、清少納言の読み方は『せい・しょうなごん』と区切って読むのが正解。


清少納言は、15歳で陸奥守・橘則光と結婚し、翌年第一子の則長を産むも、夫とは反りが合わずに、10年後に離婚してしまいます。


その後、清少納言が27歳の時、関白・藤原道隆の依頼で、一条天皇の中宮・藤原定子の女房として仕える事になります。

当時、より位の高い人の女房として仕える事がステータスであり、女房は憧れの職業でした。

この事で、清少納言は一気に上流階級への仲間入りを果たします。


元々清少納言は、博識で頭のいい女性でしたので、主君定子の恩恵だけでなく、その巧みな和歌のやり取りや漢詩の知識で、たちまち宮廷社会にその名を轟かせていきました。
ですが、主君定子の父である道隆が亡くなり、弟の道長が関白の位に就いた事で、彼女の人生は暗転。スパイの容疑を掛けられ、宮廷を追われてしまいます。

一方、定子の身の回りにも不幸が続き、清少納言の存在が支えだった定子は、屋敷に引きこもっている清少納言に、貴重な紙を贈り、この紙に宮廷で過ごした頃の煌びやかな思い出を書きつづったのが、枕草子になったと言われています。


また、同じく女流作家として有名な紫式部清少納言は、ライバル関係にあったと言われていますが、実は彼女達が活躍した時期は大きくずれていて、面識すらなかったはずです。

なので、紫式部清少納言を酷評している部分は確かにあるものの、2人のガチガチのライバル関係については、後世による創作が大きいと、福岡忠久は考えています。

福岡忠久の偉人録「芥川龍之介」

今日、福岡忠久が紹介する人物は芥川龍之介です。
芥川龍之介は1892年3月1日に、誕生しました。


生後間もなく実母が精神に異常を生じたため、母方の親戚芥川家に預けられました。

11歳のときにその実母が亡くなったため、叔父の養子となり、正式に芥川の名字を名乗ることになります。


龍之介は幼い頃からたいそう利発な子供だったようで、府中第三中学校を卒業の際は「多年成績優秀者」の賞状を受けるほどだったそうです。

その後第一高等学校を経て、1913年、超難関であった東京帝国大学英文学部へ進学しました。

在学中から創作活動に関わり、1916年、大学卒業の年に発表した「鼻」が夏目漱石の絶賛されるなど、文筆活動は順調に進んで行きます。


私生活でも1919年には結婚、3人の男児に恵まれるなど、公使共に一見恵まれた人生を歩んでいるように見えました。


しかしその裏では実らなかった初恋や、既婚女性との浮気、どんどん衰えていく心身の健康、など、黒々とした闇のようなものを、これでもかというほど抱え込み、遂にはアヘンや睡眠薬を常用するような状態にまで陥っていきます。


福岡忠久が思うに、世間における華々しい活躍とは別として、龍之介の心は、重く淀んだ状態が常だったのでしょう。 

龍之介の後期の作品の「河童」や「歯車」には、晩年の龍之介の厭世的、さらには病的ともいえる心理状態が表現されています。


おまけに生活上の苦労までが、龍之介を容赦なく襲います。

文筆の腕一本で、自分の家族と養父母の一族を支えなければならなかっただけでなく、義兄の自殺に伴い、彼の残された遺族まで計20名の面倒を見なければならなくなってしまったのです。


このようなさまざまな事件が、容赦なく龍之介の心を蝕んでいきました。
1927年7月24日未明、芥川龍之介は致死量の睡眠薬を飲んで、重く苦しい人生に自ら終止符を打ちました。享年35歳。

 

 

福岡忠久の偉人録「中村天風」

今日、福岡忠久が紹介する人物は中村天風です。

天風は、明治生まれの思想家、実業家、著述家であり、日本初のヨーガ行者で、心身統一法の普及啓蒙する「天風会」の創始者でもあります。


明治9(1876)年、現在の東京都北区で生まれた天風は、幼少期より性格が強烈で、小学校を卒業すると、父親の郷里である福岡県の親戚の家に預けられ、修猷館中学に通います。

明治25(1892)年に修猷館中学を中退した天風は、玄洋社頭山満の元に預けられ、頭山満の紹介で、その年、陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉の鞄持ちとして、満州へ赴きます。大連から遼東半島に潜伏し、偵察や調査を行い、大陸を見聞しました。


日露戦争が迫った明治35(1902)年、軍事探偵となり、再度満州に潜入します。目覚ましい活躍をしますが、帰国後に、当時不治の病であった肺結核を発病しました。

心身ともに弱くなった天風は、人生について深く考え、人生の心理を求めて渡米します。

しかし、思っていたような答えを得ることができず、哲学者、有名識者を尋ねてヨーロッパに移ります。

そこでも求める答えを得ることができず、帰国を決意しました。ところが、岐路、偶然インドのヨーガの聖者に出会い、そのまま弟子入りし、ヒマラヤの麓で修行を行いました。この「偶然」は、天風がひたすら真理を求めていたからこその「偶然」ではないかと、福岡忠久は感じました。


帰国後は東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し、実業界で活躍しますが、大正8(1919)年、突如感じるところがあり、その社会的地位を放棄します。

病や煩悩などに悩まされている人を救おうと「統一哲医学会」を設立し、「心身統一法」の講演活動を始めました。

天風の熱意と教義の真価が広く各界に認められ、「天風会」が設立され、天風は昭和43(1968)年、92歳で生涯を閉じましたが、現在も活動は続いています。

福岡忠久の偉人録「宮本武蔵」

今日、福岡忠久が紹介する人物は宮本武蔵です。

宮本武蔵は江戸時代初期に活躍した有名な剣術家で、その生涯で数十回もの決闘を行いそのすべてに勝利したという強者です。

最初に決闘を行ったのは若干13歳の時だったというのですから福岡忠久も驚きです。


武蔵の決闘の中でも最も有名なのが「巌流島の戦い」です。小倉藩(現在の北九州市)にある舟島で岩流と号する剣客と戦い、刀を持った相手を木刀の一撃で倒し勝利をおさめました。

その後決闘相手の名にちなんで舟島は巌流島と呼ばれるようになったのです。

岩流は佐々木小次郎という名で呼ばれることが多いですが、こちらの名は後世の創作で名付けられたとも言われています。

また、相手を苛つかせるために武蔵がわざと遅れて行ったというエピソードが有名ですが、これも後世に創作されたものです。


晩年の宮本武蔵は細川忠利に招かれて熊本で暮らしていました。そして霊巌洞と呼ばれる洞窟に籠もり、「五輪書」という兵法書を著したのです。

その名の通り密教の五輪にちなんで全五巻に分かれており、自らが完成させた流派である「二天一流」における心構えや戦法が書かれています。

また、他の流派を批判することで自らの流派が如何に有用であるかを説いているのも特徴です。なお、現在は霊厳洞に宝物館が設けられており、木刀など武蔵ゆかりの品々が展示されています。


武蔵は剣術家としてだけではなく芸術家としての才能も持っており、様々な書画を残しました。

中には「枯木鳴鵙図」や「紙本墨画鵜図」など、重要文化財に指定されている作品もあります。

これらの作品は和泉市久保惣記念美術館永青文庫などに所蔵されています。
武蔵は1645年に没しましたが、その後彼をモデルにした講談などが多く作られ後の世に大きな影響を残しました。