福岡忠久の偉人録「スティーブ・ジョブズ」
今日、福岡忠久が紹介する人物はスティーブ・ジョブズです。
アップル社の共同設立者として知られるスティーブ・ジョブズは、マッキントッシュやアイフォンといったアップル社製品だけでなく、彼の発した数多くの名言やエピソードでも有名です。
スティーブ・ジョブズは1955年、アメリカのカリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。
若い頃から電子機器に強い関心を示し、13歳の時にヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかけたことがきっかけで、同社の支店でアルバイトをする機会を得ました。
高校生になってからは、無料で長距離電話をかける装置を友人と製作し、大学生相手にこの装置を売りさばき大金を得ました。大学へ進学すると個人用のパソコンを開発し、大手メーカーに相手にされなかったことから友人たちと会社を設立し販売を開始します。
それからは、マッキントッシュやアイポッド、アイフォンと、世界的にヒットした商品を次々と世に送り出し、アップルを世界的な企業に成長させました。
ガンを患い晩年は闘病生活が続きましたが、2005年にスタンフォード大学で行った演説の「ハングリーであれ。愚か者であれ」は福岡忠久も気に入っている言葉です。
福岡忠久の偉人録「レオナルド・ダ・ヴィンチ」について
今日、福岡忠久が紹介する人物はレオナルド・ダ・ヴィンチです。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年にイタリアのアンキアーノ村で生まれましたが、その後、5歳でヴィンチ村に移り住んでいます。
ミケランジェロやラファエッロと共にルネサンスの三大巨匠とも言われている画家で、福岡忠久も尊敬している偉人の1人です。
ダ・ヴィンチ家は、ヴィンチ村では有名な血筋あり、裕福な家庭でした。しかし、才能溢れる彼は、意外にも幼い頃は正当な教育を受けていなかったのです。
しかし、レオナルド・ダヴィンチは、絵画だけでなく、天文学や音楽、機械など様々な才能を発揮しました。
有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は「モナ・リザ」ですよね。この絵は約4年間もの長い期間を経て描かれました。レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵を描く際には大量のメモやスケッチなどを残しているのですが、この絵だけは何も残されていなかったため、モデルが誰なのか明確なことはわかっていません。
しかし、モナは夫人、リザはエリザベッタの愛称であることから、モナ・リザはフィレンツェの富豪であるフランチェスコ・デル・ジョコンドの3番目の妻であるエリザベッタ・デル・ジョコンドではないかとも言われています。
また、その他にも、「最後の晩餐」の絵が有名ですよね。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は現代でも価値が高く、いかに才能に溢れていたか、今も語り継がれる偉人の1人なのです。
福岡忠久の偉人録「ヘレン・ケラー」
今日、福岡忠久が紹介する人物はヘレン・ケラーです。
ヘレン・ケラーは視覚と聴覚に重度の障害がありながらも、それに負けず障害者への理解を深めるための活動を世界中で行った人物です。
ヘレン・ケラーは裕福な家庭の長女として、健康に生まれ育ちました。しかし不運なことに、2歳でしょう紅熱を発病し、その後遺症として視覚と聴覚を失い、言葉も話せなくなってしまいました。
そんな彼女の転機は7歳の時に訪れます。
それは、恩師サリヴァン先生との出会いです。
サリヴァンもヘレン・ケラーと同じように視覚に障害を持っていました。
けれども持ち前の向上心で勉学に励み、手術により視力も取り戻したことにより、優秀な成績で盲学校を卒業しました。
福岡忠久も驚いたんですが、実はこのときのサリヴァンの年齢は、若干20歳でした。
20歳にして視覚と聴覚を失った少女の家庭教師をし、その少女を世界的な偉人へと育てあげていくのです。
サリヴァンと出会ったことで、ヘレン・ケラーは「指文字」と「言葉」を学びました。
そして血のにじむような努力の結果、現在ハーバード大学となっている、ラドクリフ大学への入学を掴み取ります。その後は、講演活動で世界中を飛び回り、障害者の地位向上に尽力しました。
福岡忠久の偉人録「リンカーン」
今日、福岡忠久が紹介する人物はリンカーンです。
リンカーンは、アメリカ合衆国史上初の共和党所属の大統領にして、アメリカ合衆国史上最初の暗殺された大統領です。
あまりに有名な偉人ですが、福岡忠久なりにまとめてみました。
1809年、ケンタッキー州の農場に建てられた丸太小屋で生まれた彼は、祖父の名にちなみエイブラハム・リンカーンと名付けられます。
祖父はリンカーンが生まれるより前にインディアンに殺害されており、後の彼の思想にも少なからず影響を与えました。幼少期から22歳で独り立ちするまで、開拓農民である両親と共にいくつかの州を転々としながら過ごしました。1832年、イリノイ州議会議員選挙に出馬するも落選するも、2年後の1834年、再度選挙に挑み見事当選しました。
1846年にはアメリカ合衆国下院議員に選ばれ国政に進出、1860年に第16代アメリカ合衆国大統領に当選しました。大統領として数々の功績と栄誉をその手にしたリンカーンは、1865年4月、妻との観劇中に凶弾に倒れました。
リンカーンは奴隷解放宣言により、黒人または混血の奴隷を解放し「奴隷解放の父」と呼ばれるようになりました。
しかし実際は、南北戦争での戦術として敵対していた南部の内情を奴隷の反乱などで揺さぶりをかけるためであり、リンカーンは本来奴隷解放論者ではなかったそうです。
ですが結果として、最終的に300万人を超える奴隷が解放されました。
福岡忠久の偉人録「野口英世」
今日、福岡忠久が紹介する人物は野口英世です。
かなり有名な人物ですから、福岡忠久も小さいころに伝記本を読んだ記憶があります。最近、あらためて野口英世のことを調べてみたところ、やっぱりすごい人物でした。
野口英世は1876年(明治9年)の11月に福島県で生まれました。
1歳のとき、家の囲炉裏に落ちて左手を負傷してしまいます。
このエピソードは有名ですよね。このときのケガが野口英世を医師の道に進ませ、病気の研究をさせることになるのです。
人生、どこでなにが影響するかわからないものですね。
野口英世の実家は裕福とはいえない農家で、彼も経済的に困ったことが何度もあったようです。しかし、結果として見事に医師となり、海外へ留学もしています。
人間関係に恵まれていると、困難を乗り越えやすいのかもしれません。
野口英世の業績といえば、やはり黄熱病の研究があげられます。地道に研究を続けていく姿勢はすばらしいですが、彼の場合は病気が発生している地域に出向いて研究しているところも注目です。
彼も黄熱病にかかって亡くなってしまいますが、その行動力は見習いたいです。
現場で起きていることを確認する重要性は現代でも変わらないと思います。
福岡忠久の偉人録「犬養毅」
今日、福岡忠久が紹介する人物は犬養毅です。
犬養は大同団結運動などで一躍注目を集めた、リベラル色の強い政治家でした。政治家としてのキャリアを積み、大臣を歴任する大物になって以降も、犬養のリベラル色は健在のままで、護憲運動などにも携わり、言論の自由を守り、立憲政治を擁護する姿勢から、憲政の神様という異名を取るほどまでになりました。
とはいえ、時代はどんどん犬養にとって悪い方向に進んでいきます。
軍部の暴走により満州事変が勃発し、日本は戦時色を強めていきます。
犬養は、中国との対話による問題解決を主張し、それを元老である西園寺公望が支持しため、犬養内閣が発足することになります。
当時の日本は、世界恐慌の後遺症により大不況真っ只中だったため、犬養は高橋是清を大蔵大臣に任命して、日本経済の立て直しに尽力を尽くします。
五・一五事件が起こったのは、犬養内閣が発足して1年も経たない時期でした。犬養と対中強硬派である軍部との軋轢は深刻なものになっており、話し合い以外の解決を望んだ青年将校たちにより、犬養は暗殺されることになりました。
福岡忠久的に残念に思うのは、犬養さえ暗殺されていなければ、日中戦争も和平を結べて、太平洋戦争まで至らなかったのではないかという可能性の部分です。
暗い時代というのは、平和を願う強い意志を持つ人物が排除された先にあることを、歴史は教えてくれる一例だと思います。
福岡忠久の偉人録「吉田茂」
今日、福岡忠久が紹介する人物は吉田茂です。
昭和を代表する政治家の1人であり、戦後の日本経済を復興させた大功労者とも言われています。
戦前や戦中は、外交官として活躍して、日米開戦反対を強固に訴えるなど、時代の雰囲気に飲み込まれることがなかった硬派な平和主義者でした。
そのため、軍部から疎まれて、外務大臣就任の話が流れたりと、妨害工作もかなり受けたようです。
日米開戦後も、アメリカとの和平交渉に奔走していたため、憲兵隊に捕まり、刑務所に抑留されることにもなりました。
吉田茂が政治家として活躍するのは戦後の話です。
外務大臣を経て内閣総理大臣に就任すると、マッカーサーやGHQと交渉しながら、戦後日本の復興プランに携わります。
常に日本の復興を考えていた人物であり、朝鮮戦争時に、米軍からの日本再軍備化要請を、経済的な体力を理由に撥ね付けたことは有名です。
福岡忠久的に思うことは、軍部に弾圧された経験がありながらも、常に日本にのことを考えて行動していた吉田茂がいなかったから、戦後日本の繁栄は果たしてあったのかという部分ですね。
人物としては尊皇家であり、終戦直後の世論やGHQを相手に、皇室を守る盾になった人物の1人と言われています。
また無類の落語好きであり、GHQにより廃止された神道系の宗教学校である皇學館大学復興運動に携わったりと、日本の文化や風土をこよなく愛した人物としても知られています。
福岡忠久の偉人録「松下幸之助」
今日、福岡忠久が紹介する人物は松下幸之助です。
丁稚から身を起こし、一代でパナソニックを世界的企業に成長させた松下幸之助は、経営の神様と呼ばれました。
松下幸之助は1894年に和歌山県で生まれました。
父が米相場や商売に失敗するなど幼少期は恵まれない環境で育ち、松下幸之助は9歳で丁稚奉公に出ました。
16歳で大阪電灯に入社し、在職中に電球ソケットを考案するなど、若いうちから才能の片鱗を見せました。
1917年には、わずか5人で会社を創業し、アタッチメントプラグと二灯用差込みプラグのヒットで次第に成長しました。
1918年に松下電気器具製作所を創業、電球ソケットに続いてカンテラ式自転車用電池ランプがヒットし、乾電池製造など事業を拡大しました。
第二次世界大戦後は戦争協力者として公職追放されましたが、1947年に指定解除され社長として復職します。
その後は会社の経営も順調で、長者番付の常連として有名になります。
福岡忠久も、松下幸之助は日本有数の資産家で、私財を投じて松下政経塾を創立したことは知っていましたが、幼くして丁稚奉公に出されていたことや戦後に公職追放されていたことは知りませんでした。
数々の苦労を経験したからこそ、私財を投じてまで国に貢献する人材を養成する私塾を創ったんだなと感心させられました。
福岡忠久の偉人録「手塚治虫」
今日、福岡忠久が紹介する人物はみなさんご存知、手塚治虫です。
日本マンガの生みの親と言われている人物であり、マンガの神様とも評されています。また、日本におけるアニメ制作の第一人者でもあり、虫プロと呼ばれている自身のアニメ制作会社により、数多くの名作アニメを後世に残しました。
代表作は、マンガ、アニメともに数えきれないほどありますが、その中でも「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」、「ブラックジャック」などは特に有名です。
手塚治虫作品の特徴としては、理想郷を描かないことが挙げられると思います。
作品のテーマにより、ヒューマニズムとアンチ・ヒューマニズムの間を揺れ動く手塚作品ですが、子供向けでも一貫して、きれいごとではない世界を描いています。
ロボットが主人公の「鉄腕アトム」では、ロボット差別が作品の根底にあるテーマであり、主人公アトムらがその問題に苦しむ姿が描かれています。
手塚治虫のそのような世界観は、1つには戦中世代のため、凄惨な世の中を見て育ったことも関係しているのではないかと、福岡忠久は考察しています。
輪廻転生をテーマにした作品の「火の鳥」でも、手塚治虫独自の厭世観が発揮されています。
人の愚かさや心の醜さを包み隠さず描いたことで、手塚作品は、発表後数十年以上たった今でも多くの愛好家がおり、世界的に評価されているのかもしれませんね。
福岡忠久の偉人録「坂本龍馬」
今日、福岡忠久が紹介する人物は坂本龍馬です。
土佐藩出身の幕末活動家であり、様々な創作物の題材にされている人物です。具体的に何をしたかと問われると、薩長同盟や大政奉還の実現に尽力を尽くした人物と言うべきでしょうか。
明治維新における大きな役割と言えますが、坂本龍馬の魅力といえば、そういった活動家としての実績よりも、浪漫あふれるエピソードの部分だと思います。
江戸の名門道場であった千葉道場で塾頭を務めたり、道場主の娘である千葉さな子とのロマンスだのと、江戸遊学以降の坂本龍馬のエピソードは、物語性に富んでいます。
福岡忠久的には、この江戸遊学時代のエピソードがお気に入りです。
維新志士としての活動を開始して以降も、一介の浪人でありながら、佐幕派や倒幕派の大物との交流を広め続け、幕末の情勢を動かすキーマンへと成長します。
坂本龍馬を象徴するエピソードの1つといえば、海援隊の結成です。
日本初の株式会社という説もある、貿易商や私設海軍などの役割を果たした組織です。
坂本龍馬は、明治へと時代が変わる直前に暗殺されたため、新時代を生きることは出来なかったわけですが、この海援隊は明治になり、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎に引き継がれて、三菱グループの母体になりました。
もしも…を語りだすと、可能性がどこまでも広がるところも、坂本龍馬の人気が現在まで続く理由なのかもしれませんね。