福岡忠久の偉人録「本田宗一郎」
今日、福岡忠久が紹介する人物は本田宗一郎です。
福岡忠久が本田宗一郎を知ったのは過去の有名人の名言を探している時でした。
「失敗してもくよくよしている暇はない」という言葉にぐっときて涙が出そうになった思い出があります。本田宗一郎について興味を持ったのはその時からす。
では、本田宗一郎という人はどのような人でしょうか。
生まれは1906年生まれ、静岡県出身です。ホンダ技研工業の創立者として有名です。
ただ、学校を卒業してすぐにホンダ技研工業を作ったわけではありません。
まずは、丁稚奉公としてアート商会という自動車修理会社で働きその後のれん分けをされます。
それから数年後、東海精機重工業株式会社の社長に就任しました。
様々な経験を経て、本田宗一郎がホンダ技研工業を創立したのは1946年、終戦間もない時でした。
その後1981年に84歳で亡くなるまで自動車についての研究を進めていました。
本田宗一郎は実業家としても有名ですが、それ以上に技術者として熱い人でした。
そのこだわりや熱心さは技術者ならずとも万人が見習うところです。
本田宗一郎にはこのようなエピソードがあります。本田宗一郎は物作りに関しては120パーセントを目指すという信念を持っていたことで有名でした。
なぜ120パーセントなのか。
普通なら100パーセントの良品を目指しても人間はたいていミスをするので99パーセント以下になることがあります。
普通に考えればそれでも上出来ですが、1パーセントのできが悪い品物を手にした人は嫌な気持ちになります。
そこで、なんとか1パーセントを克服しようとした結果120パーセントになったのです。
このように、完璧を目指すため作業所にこもり、気がついたら3日経っていたと言うエピソードがあるほど情熱的な人物です。