福岡忠久の偉人録

僕、福岡忠久が、ただただ偉人を紹介していくブログ。

福岡忠久の偉人録「中村天風」

今日、福岡忠久が紹介する人物は中村天風です。

天風は、明治生まれの思想家、実業家、著述家であり、日本初のヨーガ行者で、心身統一法の普及啓蒙する「天風会」の創始者でもあります。


明治9(1876)年、現在の東京都北区で生まれた天風は、幼少期より性格が強烈で、小学校を卒業すると、父親の郷里である福岡県の親戚の家に預けられ、修猷館中学に通います。

明治25(1892)年に修猷館中学を中退した天風は、玄洋社頭山満の元に預けられ、頭山満の紹介で、その年、陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉の鞄持ちとして、満州へ赴きます。大連から遼東半島に潜伏し、偵察や調査を行い、大陸を見聞しました。


日露戦争が迫った明治35(1902)年、軍事探偵となり、再度満州に潜入します。目覚ましい活躍をしますが、帰国後に、当時不治の病であった肺結核を発病しました。

心身ともに弱くなった天風は、人生について深く考え、人生の心理を求めて渡米します。

しかし、思っていたような答えを得ることができず、哲学者、有名識者を尋ねてヨーロッパに移ります。

そこでも求める答えを得ることができず、帰国を決意しました。ところが、岐路、偶然インドのヨーガの聖者に出会い、そのまま弟子入りし、ヒマラヤの麓で修行を行いました。この「偶然」は、天風がひたすら真理を求めていたからこその「偶然」ではないかと、福岡忠久は感じました。


帰国後は東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し、実業界で活躍しますが、大正8(1919)年、突如感じるところがあり、その社会的地位を放棄します。

病や煩悩などに悩まされている人を救おうと「統一哲医学会」を設立し、「心身統一法」の講演活動を始めました。

天風の熱意と教義の真価が広く各界に認められ、「天風会」が設立され、天風は昭和43(1968)年、92歳で生涯を閉じましたが、現在も活動は続いています。