福岡忠久の偉人録「清少納言」
今日、福岡忠久が紹介する人物は清少納言です。
清少納言という名前は本名ではなく、清原姓に由来する『清』に、女房名である『少納言』を合わせたものです。
なので、清少納言の読み方は『せい・しょうなごん』と区切って読むのが正解。
清少納言は、15歳で陸奥守・橘則光と結婚し、翌年第一子の則長を産むも、夫とは反りが合わずに、10年後に離婚してしまいます。
その後、清少納言が27歳の時、関白・藤原道隆の依頼で、一条天皇の中宮・藤原定子の女房として仕える事になります。
当時、より位の高い人の女房として仕える事がステータスであり、女房は憧れの職業でした。
この事で、清少納言は一気に上流階級への仲間入りを果たします。
元々清少納言は、博識で頭のいい女性でしたので、主君定子の恩恵だけでなく、その巧みな和歌のやり取りや漢詩の知識で、たちまち宮廷社会にその名を轟かせていきました。
ですが、主君定子の父である道隆が亡くなり、弟の道長が関白の位に就いた事で、彼女の人生は暗転。スパイの容疑を掛けられ、宮廷を追われてしまいます。
一方、定子の身の回りにも不幸が続き、清少納言の存在が支えだった定子は、屋敷に引きこもっている清少納言に、貴重な紙を贈り、この紙に宮廷で過ごした頃の煌びやかな思い出を書きつづったのが、枕草子になったと言われています。
また、同じく女流作家として有名な紫式部と清少納言は、ライバル関係にあったと言われていますが、実は彼女達が活躍した時期は大きくずれていて、面識すらなかったはずです。
なので、紫式部が清少納言を酷評している部分は確かにあるものの、2人のガチガチのライバル関係については、後世による創作が大きいと、福岡忠久は考えています。