福岡忠久の偉人録

僕、福岡忠久が、ただただ偉人を紹介していくブログ。

福岡忠久の偉人録「勝海舟」

今日、福岡忠久が紹介する人物は勝海舟です。

勝海舟は、幕末に活躍した1人で、戊辰戦争の折に新政府軍の薩摩藩主である西郷隆盛江戸城無血開城を決めたことで有名です。


勝海舟は、1823年の江戸生まれで、貧乏な御家人の子供でした。

勝海舟が有名になるきっかけになったのは1853年にペリーが浦賀に来航したときです。

 

この時、江戸幕府は海防意見書を募りましたが、勝海舟もこれに募集しており、その中身が素晴らしく採用に至っています。

もともと、勝海舟には防衛についての知識や能力があったのでしょう。


1860年には日米修好通商条約の批准書を交換するため、およそ1ヶ月に及ぶ欧米使節団の1人になります。

この時に乗った船が有名な咸臨丸で、この咸臨丸の艦長に就任したのが勝海舟です。

ちなみに、咸臨丸に乗船していたのは勝海舟以外に「脱亜論」で有名な福沢諭吉日米和親条約の締結に尽力したジョン万次郎がいました。


1868年には鳥羽伏見の戦いをきっかけに薩摩藩長州藩を代表とする新政府軍と旧幕臣からなる幕府軍との間で戊辰戦争が起きています。

最初は三重県で起こった戦いも幕府軍の敗戦を繰り返す中で徐々に戦場が江戸に近づいて行きました。

 

このまま江戸で戦いが起こるとすれば、江戸に住む住人およそ150万人だけでなく、その家屋や財産も戦火に巻き込まれる恐れがありました。

そこで、幕府の代表として勝海舟薩摩藩主の西郷隆盛と談判に及び、江戸城総攻撃を予定している2日前に無血開城に成功したのです。


このように勝海舟は幕府方の人物でありながら、戊辰戦争での被害をなるべく少なくしようと奔走した点が幕末の人物の中でも異色であり、またそれが現代にも評価されるに至っています。
福岡忠久も勝海舟に見習い、見聞を深めていきたいと思います。

福岡忠久の偉人録「夏目漱石」

今日、福岡忠久が紹介する人物は夏目漱石です。


皆さんご存知、夏目漱石。昔の千円札にも載っています。

彼は日本を代表する作家で、「こころ」「坊ちゃん」など言わずとしれた名作です。

福岡忠久も尊敬しております。とくにあの「吾輩は猫である」はなんと処女小説だというから、何とも驚きです。


そんな漱石ですがこの「夏目漱石」はペンネームで、本名は夏目金之助といいます。まずそのエピソードを書きましょう。


中国の故事成語に「枕石漱水」というもがあります。

これは「石を枕にして眠り、水の流れに口を漱ぐ」という意味ですが、漱石はそれを間違えて覚えており、「漱石枕水」と覚えていました。

 

それを友人へ言ったところ、友人に突っ込まれます。しかしそれに対して漱石は「石で口を漱ぐのは歯磨きのためで、川の流れを枕にするのは耳の中を洗うためだ」と意地を張ります。

このミスによってできた言葉をのちにペンネームとしたわけです。

これからもわかるように漱石はすごく意地っ張りだったようです。 

 

また、正岡子規とも交流が深かったことも知られています。

彼らは互いに励ましあいながらお互い頑張ったそうです。正岡子規もですが、夏目漱石も多くの造語を生み出したことでも知られています。

「新陳代謝」「無意識」「肩が凝る」といった言葉を作ったとされていますが、18世紀末ごろの歌舞伎本にも載っていることから、その実態は不明です。


日本で非常に有名な漱石ですが、海外での評判も悪くはないようです。

三四郎や倫敦塔はアメリカやイギリスで英語翻訳されていますし、1990年代の韓国では漱石ブームと呼ばれるほど有名人だったようです。 

 

日本でも海外でも評価があったことを考えるとやはり、お札に描かれるのは納得といったところではないでしょうか。

福岡忠久の偉人録「渋沢栄一」

今日、福岡忠久が紹介する人物は渋沢栄一です。渋沢栄一は江戸時代末期から大正初期にかけて生きた、武士、官僚、実業家です。


1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。実家は農家で、家業の畑作や養蚕、染料の藍玉の製造・販売を手伝う傍ら、幼いころから、父親に学問の手ほどきを受け、従兄の尾高淳忠のもとで論語などを学びます。


青年期は尊王攘夷の思想に染まり、江戸で剣術の腕を磨き、ついには、高崎城乗っ取りの計画を立てます。

ところが、実行の直前に断念し、京都へ向かい、縁あって一橋慶喜に使えることになりました。

一橋家の財務状態改善などに実力を発した栄一は、パリで開かれた万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武に随行し、万国博覧会を見学するほか、欧州諸国の実情を見聞する機会を得ました。

各地で先進的な産業や軍備を目にし、先進諸国の社会に触れた経験は、その後の活躍に影響を与えます。


明治維新後、静岡に「商法会所」を設立した栄一は、明治政府に招かれて、大蔵省の一員となって新しい国づくりに携わります。

その時代は、役人が商工業者を見下す「官尊民卑」傾向がありました。

栄一は、民間が力をつける必要を強く感じるようになり、1873年に大蔵省をやめ、民間の経済人としての活動を開始します。
その後は、第一国立銀行王子製紙秩父セメントなど多種多様な企業の設立に携わりました。その数は約500社と言われています。

同時に、約600の教育機関や社会公共事業の支援や、民間外交にも尽力を尽くしました。
福岡忠久が特に注目するのは、三井高福や岩崎弥太郎のような財閥創始者のように、渋沢栄一は財閥を作らなかったという点です。

そこには、「私利を追わず公益を図る」という、栄一の考えが貫き通されているように思います。

福岡忠久の偉人録「本居宣長」

今日、福岡忠久が紹介する人物は本居宣長です。

宣長は、江戸時代後期の国学者であり、医師でもあります。


1730(享保15)年、伊勢国松阪(現在の三重県松阪市)の木綿問屋の小津家に生まれた宣長は、16歳のときに養子となって紙商売を始めますが、3年後に離縁して松阪に戻ってきました。

 

その後、商売の勉強のために江戸に行きますが、本を読むことができない生活を強いられ、また、江戸の街にもなじめなかったので、1年で帰京します。

兄が死んだ後に小津家を継ぎますが、22歳のときに医者になるために京都へ遊学しました。

京都では契沖の本に出会い、儒学を堀景山から学ぶようになります。

姓を、先祖の姓である本居に戻し、このころから、古典学を熱心に研究するようになったそうです。27歳のとき、先代旧事本紀古事記を購入した宣長は、国学の道に入ることを決めました。


1757(宝暦7)年に松阪に戻って医師を開業した宣長は、医師の仕事の傍ら、源氏物語の講義や日本書紀に研究に励みます。

手紙で国学者賀茂真淵の教えを受けるようになり、1763(宝暦13年)松坂の宿屋で対面しました。

この後、宣長古事記の研究に取りかかり、1798(寛政10)年、古事記伝44巻を完成させます。

1801(享和元)年、72歳で病死し、死後21年目に古事記伝が出版されました。


国学は、古き日本の歴史や文学などについて研究する学問で、宣長の思想を受け継いだ平田篤胤によって、復古的な神道に発展し、尊王思想と結びついたと言われています。

宣長自身は直接倒幕運動に関わってはいませんが、大きな影響を与えた人物と言えるかもしれません。


宣長は、日記を始め、日常の諸記録や研究の過程まで、いろいろなものを書き残しています。

葬儀の次第について記した「遺言書」まで書き、あの時代にあって、自分の墓のデザインをしていることに、福岡忠久は驚きました。

福岡忠久の偉人録「本田宗一郎」

今日、福岡忠久が紹介する人物は本田宗一郎です。

 

福岡忠久が本田宗一郎を知ったのは過去の有名人の名言を探している時でした。

「失敗してもくよくよしている暇はない」という言葉にぐっときて涙が出そうになった思い出があります。本田宗一郎について興味を持ったのはその時からす。

では、本田宗一郎という人はどのような人でしょうか。
生まれは1906年生まれ、静岡県出身です。ホンダ技研工業の創立者として有名です。

ただ、学校を卒業してすぐにホンダ技研工業を作ったわけではありません。

まずは、丁稚奉公としてアート商会という自動車修理会社で働きその後のれん分けをされます。

それから数年後、東海精機重工業株式会社の社長に就任しました。


様々な経験を経て、本田宗一郎がホンダ技研工業を創立したのは1946年、終戦間もない時でした。

その後1981年に84歳で亡くなるまで自動車についての研究を進めていました。
本田宗一郎は実業家としても有名ですが、それ以上に技術者として熱い人でした。

そのこだわりや熱心さは技術者ならずとも万人が見習うところです。

 

本田宗一郎にはこのようなエピソードがあります。本田宗一郎は物作りに関しては120パーセントを目指すという信念を持っていたことで有名でした。

なぜ120パーセントなのか。

普通なら100パーセントの良品を目指しても人間はたいていミスをするので99パーセント以下になることがあります。

普通に考えればそれでも上出来ですが、1パーセントのできが悪い品物を手にした人は嫌な気持ちになります。

そこで、なんとか1パーセントを克服しようとした結果120パーセントになったのです。
このように、完璧を目指すため作業所にこもり、気がついたら3日経っていたと言うエピソードがあるほど情熱的な人物です。

福岡忠久の偉人録「太宰治」

今日、福岡忠久が紹介する人物は太宰治です。


太宰治といえば誰もが知る文豪で、1909年生まれで1948年に没しています。本名は津島修治と言って、太宰治はいわゆるペンネームです。


1936年に最初の作品集である「晩年」を刊行して注目を集めて文壇のデビューを果たします。代表作は「走れメロス」「斜陽」「人間失格」で、学校の教科書に載っていますし、ドラマや映画などに使われたこともあるので、実際に読書をしていなくともなんとなく知っているという人が多いでしょう。

作風から坂口安吾石川淳たちとともに新戯作派や無頼派と呼ばれていました。


日本の文壇を大いに盛り上げた太宰ですが、1948年に山崎富栄と玉川上水で入水自殺を完遂しました。
しかし太宰治の世界を知るにはやはり読書が一番で、福岡忠久は学生時代に「斜陽」や「人間失格」を読んで衝撃を受けました。

人間の深淵深く見つめて書き表している、その当時の時代背景もしっかりとしていて今現在から読み進めるとやや堅苦しい、雁字搦めなところも見受けられますが、それも面白く感じられます。


太宰の生きていた時代は今よりも閉塞感があり、新しい時代の流れが近付いてくることを誰でも感じていました。

その中で未来について、自分自身について思い悩んだ気持ちが作品にも表れていて、小説を読むと同時に太宰自身の気持ちもわずかながら伝わってきます。

特に「人間失格」は奥が深く、主人公は現代人にも通じる気持ちの持ちよう、生き方をしていて自分自身を見つめ直すきっかけにもなります。人間というものの本質を掴んで表す、そういった作風です。
このような作品を数多く書いてきた太宰治、堅苦しいと毛嫌いせず一度読んでみることをおすすめします。

福岡忠久の偉人録「相田みつを」

今日、福岡忠久が紹介する人物は相田みつをです。


相田みつを書道家であり、詩人です。日本人であれば彼の詩は幾度となく目にしていることでしょう。福岡忠久も生きる心の糧として詩集を持っています。相田みつをといえばなんといっても「人間臭さ」だと思います。その詩とそれにまたあった字体であるため読み手をぐっと引き込み心に強く訴えかける感じがあります。


”つまづいたって
いいじゃないか
にんげんだもの”


この詩は特に心を打たれます。

ほかの偉人とはまた違って、とても苦労して来たことが伝わるし、なんだか心の支えとなります。やはりそのようなところが評価されてるのでしょう。

現代の有名人も相田みつをの言葉を座右の銘にしている人が大勢います。
もともとみつをは、書の最高峰である毎日書道展で7年連続入選するほどの初動の実力者でありましたが、一般人の理解しがたい書道よりも、多くの人の心に残るものをということで、あの独特の字体で詩をかくようになったようです。


そんなみつをですが生きているあいだにいい評価を得ることはできなかったようです。有名になったのは晩年になってからですが、今でも現代詩人からの評価はあまり良くないようです。

奥本大三郎は「うまく書ける字をわざと下手に書いている人には何か魂胆があると疑いたくなる。」と酷評されているようです。

しかし一方で、みつをの人に対する洞察力が行動経済力が想定する「人類」をうまく表現しているとの評価もうけているようです。
相田みつをには専門家から様々な評価がありますが、素人目で見ても心に訴えかけられるのは明らかであり、非常に心に響きます。

やはりこのような詩を作れる相田みつをは素晴らしいと思いますし、福岡忠久も尊敬しています。

福岡忠久の偉人録

今日は福岡忠久がブログをスタートさせた記念すべき第一回目なので、自己紹介を含めてなぜこのブログを立ち上げたのかをお話していきます。

福岡忠久の歴史マニアとしてのスタートは振り返れば物心ついた時からですが、普段から感情をあまり爆発させるタイプでは無いので、声高にとても歴史が好きだ!とは言ったことがありませんでした。

B型はマイペースと言われるらしく24歳になって初めて歴史への熱意をブログに綴ろうと目論んでいます。

そう言えば誕生日診断をしたことがあるのですが、7月12日生まれのタイプは旺盛な好奇心があるらしく、歴史マニアになるには必然な星まわりか?と自分でも思っています。因みに南北朝時代をまとめ上げ、日明貿易を成し遂げたカリスマ足利義満を父に持つ室町幕府第6代将軍の足利義教と同じ誕生日(1394年7月12日/応永元年6月14日)です。

この足利義教は日本史上で最も恐怖政治を行った暴君として知られる人物ですが、後の世の織田信長の振る舞いにも似た人物であったとされています。

残忍な部分は推し量れませんが、その決断力と行動力は見習うべき部分があるかと思います。比叡山制圧を信長が行う140年前に成功させてしまう凄い人です。

歴史なら何でも好きなのですが最近は日本の偉人に特に興味があってブログ立ち上げの理由にもなりました。

遠い昔のそれぞれの時代を生きた偉人たちの生き様や、葛藤、喜びなどを紐解けるのは記録されている史実と、現代に生きる人々が史実を分析し想像することでしか知ることは出来ません。

偉人たちの姿を通して日本が辿って来た歴史に思いをはせたいと思います。

 

ドラマチックでミステリアスな歴史を探索することが日々の喜びなのです。