福岡忠久の偉人録「本居宣長」
今日、福岡忠久が紹介する人物は本居宣長です。
1730(享保15)年、伊勢国松阪(現在の三重県松阪市)の木綿問屋の小津家に生まれた宣長は、16歳のときに養子となって紙商売を始めますが、3年後に離縁して松阪に戻ってきました。
その後、商売の勉強のために江戸に行きますが、本を読むことができない生活を強いられ、また、江戸の街にもなじめなかったので、1年で帰京します。
兄が死んだ後に小津家を継ぎますが、22歳のときに医者になるために京都へ遊学しました。
京都では契沖の本に出会い、儒学を堀景山から学ぶようになります。
姓を、先祖の姓である本居に戻し、このころから、古典学を熱心に研究するようになったそうです。27歳のとき、先代旧事本紀と古事記を購入した宣長は、国学の道に入ることを決めました。
1757(宝暦7)年に松阪に戻って医師を開業した宣長は、医師の仕事の傍ら、源氏物語の講義や日本書紀に研究に励みます。
手紙で国学者の賀茂真淵の教えを受けるようになり、1763(宝暦13年)松坂の宿屋で対面しました。
この後、宣長は古事記の研究に取りかかり、1798(寛政10)年、古事記伝44巻を完成させます。
1801(享和元)年、72歳で病死し、死後21年目に古事記伝が出版されました。
国学は、古き日本の歴史や文学などについて研究する学問で、宣長の思想を受け継いだ平田篤胤によって、復古的な神道に発展し、尊王思想と結びついたと言われています。
宣長自身は直接倒幕運動に関わってはいませんが、大きな影響を与えた人物と言えるかもしれません。
宣長は、日記を始め、日常の諸記録や研究の過程まで、いろいろなものを書き残しています。
葬儀の次第について記した「遺言書」まで書き、あの時代にあって、自分の墓のデザインをしていることに、福岡忠久は驚きました。